世界遺産登録のきっかけ 〜「水没の危機」から始まった国際的保存活動
1960年代、エジプト政府がナイル川上流にアスワン・ハイ・ダムを建設する計画を進める中で、大きな問題が浮上しました。ダムの完成によって生まれるナセル湖の水位上昇により、ヌビア地方の数十もの貴重な古代遺跡が水没する恐れがあったのです。

これに対してユネスコは、1959年にエジプトとスーダンの要請を受けて「ヌビア遺跡救済キャンペーン(International Campaign to Save the Monuments of Nubia)」を始めます。
世界中の専門家・機関が参加し、世界各地で特別展(巡回展)を開催し、アブ・シンベル神殿やフィラエ神殿などを解体・移設するための大規模プロジェクトが展開されました。
このキャンぺーんは、国際社会が協力して文化遺産を守るという新たな枠組みを提示し、後の「世界遺産条約」(1972年採択)制定にも大きく寄与しました。つまり、ヌビアの遺跡群の保護こそが、世界遺産制度の原点のひとつなのです。
世界遺産登録情報
登録名:「ヌビア遺跡群:アブ・シンベルからフィラエまで」
Nubian Monuments from Abu Simbel to Philae
登録年:1979年
主要な構成資産:
◉ アブ・シンベル神殿(Abu Simbel Temples)
- 古代エジプト新王国・第19王朝のラムセス2世が建設した大神殿と小神殿。
- 特に大神殿のファサードに並ぶ巨大なラムセス2世像(高さ約20m)は世界的に有名。
- ダム建設により完全に水没の危機にさらされ、1964〜1968年にわたって、神殿全体が解体・高台へ移設された。
◉ カラブシャ神殿(Temple of Kalabsha)
- ローマ時代に築かれた神殿で、ヌビア地方最大の建造物の一つ。
- 太陽神マンドゥリスを祀っている。
- こちらもナセル湖の影響を避けるために解体・移設された。
◉ フィラエ神殿群(Philae Temple Complex)
- エジプト神話の女神イシスを祀る聖地。
- 古代末期までイシス信仰が続いた重要な宗教センター。
- アギルキア島へとそっくりそのまま移築され、現在は観光地としても人気。
これらの神殿はナイル川に沿って分布しており、紀元前13世紀から紀元後3世紀頃に至るまでの建築様式と宗教の変遷をたどることができる点でも価値が高いと評価されています。
世界遺産登録基準 :
(i):人類の創造的才能を表現する傑作
例:アブ・シンベル大神殿に見られる巨大彫刻と建築的技巧。
(iii):現存する、またはすでに消滅した文化的伝統または文明の証拠
例:ヌビア地方における古代エジプトおよびローマ時代の文化の痕跡。
(vi):出来事や伝統、宗教、芸術的・文学的作品と直接関連するもの
例:イシス信仰やラムセス2世の政治的プロパガンダとの関係。
ヌビア遺跡群が持つ世界的意義
ヌビアの遺跡群は、単なる考古学的な遺構ではありません。その保護活動の歴史自体が、文化遺産保護の国際的モデルケースとして評価されているのです。また、アフリカ内陸部における古代文明の存在を示す数少ない確かな証拠として、「もう一つのナイル文明」と称されることもあります。
とりわけ、アブ・シンベルのように国家的威信と信仰を同時に表現した建築群が、何千年を経てもなおその壮麗さを失わず残っていることは、人類の創造力の証そのものと言えるでしょう。
世界遺産「ヌビアの遺跡群」は、古代の記憶を今に伝えるだけでなく、世界遺産制度そのものの始まりを象徴する特別な存在です。保存の危機を乗り越えたこれらの遺跡群は、文化の継承とは何かを現代に問いかけ続けています。
ヌビア遺跡救済キャンペーンの詳細
背景:水没の危機に瀕した古代遺跡群
1950年代末、エジプト政府はナイル川中流域にアスワン・ハイ・ダム(Aswan High Dam)の建設を決定しました。これにより、ナイル川上流に全長約500kmにも及ぶ人造湖「ナセル湖」が出現することになり、その水没範囲にヌビア地方の数十にも及ぶ古代遺跡が含まれていました。
なぜアスワン・ハイ・ダムは建設は必要だったのか?
1960年代に建設されたアスワン・ハイ・ダムは、ナイル川の水を国家発展に活用するための巨大プロジェクトで主な目的は3つありました。
1.毎年発生する洪水の制御や干ばつ対策
ナイル川は、毎年夏に上流(エチオピア高原など)からの増水により洪水を起こしていました。この自然現象は古代から農耕に恩恵をもたらしてきましたが、近代化が進むにつれて、洪水被害や干ばつによる損失が深刻な問題となっていました。
2.農業用水の安定供給
年間を通じて安定した灌漑用水を得ることで、エジプト全土の農業生産力を飛躍的に高めることが期待されていました。ナイル川の流量を人工的に調整し、複数回の作付けや新たな農地開発を可能にするという構想がありました。
3.水力発電による電力確保
ダムに設けられた発電所は、水力発電によってエジプト全土に安定した電力供給をもたらす目的で建設され、また電化による工業化・都市化の推進を狙っていました。
とりわけ、ラムセス2世のアブ・シンベル神殿や、女神イシスを祀るフィラエ神殿など、世界的に重要な遺跡が危機に瀕したのです。
そこで1959年、エジプトとスーダンの両政府はユネスコ(UNESCO)に協力を要請。これを受けてユネスコは「ヌビア遺跡救済キャンペーン」を正式に立ち上げ、国際社会に向けて支援を呼びかけました。
この呼びかけに対し、50カ国以上の政府・専門機関・研究者が参加を表明。当時としては前例のない、グローバルな文化遺産保護活動となりました。
実際の古代遺跡群の救済活動内容
世界各地での「エジプト展」開催
目的
- 遺跡水没の危機を訴え、国際的な注目を集める。
- 救済事業への資金協力や技術提供を呼びかける。
- エジプト古代文明の魅力を伝え、文化遺産保護の必要性を実感してもらう。
展示内容
- ファラオ時代の貴重な出土品(彫像、副葬品、レリーフなど)
- アブ・シンベルやフィラエ神殿の精巧な模型
- ナイル川やダム建設の資料、写真パネル、映像記録など
解体・移設
最も象徴的な活動が、「アブ・シンベル神殿」の移設で、その他「カラブシャ神殿」「フィラエ神殿」等も移設せれています。
約3,000年以上前に岩山をくり抜いて建てられたアブ・シンベル神殿は、1,000以上のブロック(各数十トン)に切り分けて、65メートル上方へ移設されました。
調査・記録保存
移設が難しい遺跡については、詳細な記録(写真・図面・測量)を残すことで文化的情報を後世に伝えることが目指されました。
- スーダン領内の遺跡の多くは物理的保存が不可能だったため、調査と記録保存が主眼に置かれた。
- これにより、失われた遺構であっても学術的情報は今も研究に活用されています。
キャンペーンが残した意義と影響
世界遺産条約の誕生に道を開く
この経験が契機となり、1972年に「世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約(世界遺産条約)」が採択されました。文化財保護を国際社会の共同責任と位置付けた初の枠組みです。
グローバルな文化保護意識の高まり
このキャンペーンによって、世界各国に「文化遺産は人類全体の財産であり、国境を越えて保護すべきである」という意識が広まりました。
技術・資金の国際協力のモデルに
専門技術や資金援助の枠組みが国際協力として機能したことは、後の文化財救済活動(アフガニスタンのバーミヤン遺跡、イタリアのフィレンツェ洪水後の文化財復旧など)にも応用されました。
まとめ 世界が一つになって守ったもの 〜ヌビア遺跡から考える〜
ヌビア遺跡救済キャンペーンの経緯を知ったとき、私は単に遺跡が移設されたという成功した物語以上に、そこに込められた人々の努力と想いに強く心を動かされました。異なる国々が立場を越えて協力し、歴史や文化を守るために力を合わせたという事実は、現代においても学ぶべき姿勢ではないかと感じます。
この活動がなければ、今こうしてアブ・シンベル神殿を目にすることも、ヌビア文化の遺産に触れることも叶わなかったかもしれません。しかも、それはエジプトだけの努力ではなく、国際社会全体の協力によって実現したという点に、文化遺産の「世界的な価値」が象徴されているように思います。
また、展示会や広報活動を通じて、単なる資金集めではなく、多くの人々が世界の遺産という意識を持つきっかけになったことも印象的でした。文化や歴史は、どこか遠い誰かのものではなく、「今を生きる私たち自身が関わるもの」なのだと、あらためて実感しました。
これからも世界の遺産に触れるとき、こうした背景にある“守るための物語”にも思いを馳せてみたいと思います。